僕が空手をはじめた日⑤ 僕が空手をやめた日

 

 

さて、このブログの読者の中にはこう思う者もいるだろう。

 

 

おまえの親父ひどくね?

 

 

たしかに僕の親父は酷い人と思うし大人気ない。

 

振り返れば、空手を始めるまで、親父は僕のことを認めてくれたことはなかった。勉強も運動も何にもかも。

 

できないことに対して、小馬鹿にされたり、「なぜ出来ないんだ」と怒鳴られたこともあった。

 

「いや、理由とかじゃなくて、できねぇから、できねぇんだよ」って心底では思っていた。だから、大体のことは年齢を経るまで出来なかった。

 

 

勉強、運動、自転車、縄跳び、女の子と話すこと、1人で買い物、靴紐を結ぶこと、ケーキを6等分に切ること。

 

 

なにもできやしない。

 

 

今考えるとそりゃ怒鳴られるわなぁと思う。

 

 

親父と僕は喧嘩したりしたこともあったし、長いこと口を聞かないこともあった。まぁ、僕よりも30歳近く歳上の人間のやる行動ではない。

 

ともかく、親父は厳しいというか偏屈で気難しい人だった。だから、僕はいじめが発覚してから親父とあまり口を聞かなかった。

 

だけど、空手の道場まで車で送り迎えをしてくれた。

 

まぁ、空手の道場まで送り迎えをする30分間もずっと黙ったままだった。

 

 

さてさて、話は切り替わる。

 

そこから時間が進んで、僕が空手をやめた日。意外と道場のみんなはあっさりしていた。じゃあな、元気でなって具合に。色んな先輩から激励をもらって、胴上げもしてもらった。

 

 

最後の日はそんな感じで終わった。

 

 

送り迎えの車の中で、親父はそんな最後の日に重い口を開いた。

 

 

 

「今までよーやったな」

 

 

 

また話は切り替わる。

 

さて、その後も僕は空手を続けたのか。

 

 

答えはノー。今の今まで空手はしていない。

 

 

僕は空手をやめた。高校に入る前、受験を名目で道場を退会した。僕はそれっきり空手もしないし道場にも顔を出していない。

 

高校は中学の友達が全くいないような遠方の私立校に通った。いじめられた過去をキッパリ忘れるために。空手をやめたのも同じような理由だった。

 

結局、空手ばかりに依存してしまい、逃げ道を作ってしまう。だから、キッパリと縁を切って、人生をやり直した。

 

帯も道着もプロテクターも大学に入る前に廃棄した。

 

古いブログ、10年以上も前の道場ブログの写真だけが、僕があの瞬間、空手をして生きていた証明になっている。

 

 

過去を捨てて違う人間になるために。そして、僕は違う人間になれた。

 

 

 

のかも知れない。

 

 

実際はどうかわからない。

 

 

このブログを通じて誰かに勇気を与えたいわけでもないし、僕をいじめた人間よりいい人生を送ってやろうとも思わない。

 

そんなの不可能だし、絶対になれないし、できないと思う。

 

これは、ただの個人的な昔の話。

 

死体のように生きていた数ヶ月、空手をしていた2年間、死ぬ気で戦った5分間、上段蹴りを繰り出した一瞬。

 

 

僕の人生が変わったのは、紛れもなく、あの瞬間だった。

 

 

あの瞬間、僕は何かになれた。

 

 

昔、僕はピーター・アーツになりたかった。

 

 

ピーター・アーツになれなかったし、過去からはやっぱり逃げれないかも知れない。

 

 

だけど、僕はマヌケじゃない何かになれたと思う。

 

 

 

吠えるエース

『平成の怪物』松坂大輔投手。

日本最速の投手と呼ばれる伊良部投手。

巨人の三本柱として活躍した桑田真澄投手、斉藤雅樹投手、槙原寛己投手。

トルネード投法と呼ばれた独特のフォームから繰り出される最速156km/hを武器とした野茂英雄投手。

真横に滑るような高速スライダーで当時の強打者達を悩ませた伊藤智仁投手。

 


一般的に言えば『平成の最強の投手』と言うと誰を連想するだろうか。

 


2013年において田中将大投手が24連勝、勝率1.000という日本球界を轟かす記録を作り出したことは皆さんの記憶に新しいだろう。

 


投手の投球が優れていても必ずしも勝ち星を上げることが出来るとは限らない。相手打線を0点に抑えたとしても、味方からの援護点がなければ勝ち星は付かない。

その点において2013年の楽天イーグルスはチーム全体で田中将大投手を支えていた。

 


負けないエース。

田中将大投手が無敗記録を作り上げた7年前に1人の投手が『負けないエース』と呼ばれた。

ダイエーホークス福岡ソフトバンクホークスに所属していた斉藤和巳投手である。

クリストファー・ニコースキー選手は「斉藤は別格」と語り、落合博満さんは「斉藤こそが球界で最も優秀な投手」と評された。

 


彼は1995年にドラフト1位指名でダイエーホークスに入団。しかし、入団当初から怪我に悩まされてプロ入り3年目には初の右肩の手術を行う。

当時の監督であった王貞治さんは斉藤和巳投手をあくまでも右の本格派エースとして期待していたと言う。

 


「エースは斉藤か、寺原」

王貞治監督を始めとする首脳陣たちは2003年1月という開幕前の時期にそう語った。

そして、首脳陣の予想は的中した。彼の転機はプロ入り八年目の2003年だったのは言うまでもない。

 


3月28日。

斉藤和巳投手は2003年度の開幕第一戦の千葉ロッテ相手に先発投手として抜擢されたのである。

 


対するロッテの先発はネイサン・ミンチー選手。

メジャーでの登板経験もあり、来日後は広島東洋カープを経て千葉ロッテマリーンズに所属。2001年には史上初の外国人投手両リーグ2桁勝利を達成し、パリーグ最優秀防御率のタイトルを獲得した。多彩な変化球を持つ技巧派の投手である。

 


QVCマリンフィールド斉藤和巳投手は開幕投手としてマウンドに立っていた。

開幕マスクの城島健司捕手のミットに白球が収まった。そして、一斉にレフトスタンドを埋め尽くしたホークスファンから歓声が上がる。

 


試合の結果は7-3でホークスの勝利。

この試合が彼にとって2003年の初勝利である。

三振を奪うと雄叫びを上げる。そして、そんな人間味と闘志が溢れる行動から、斉藤和巳投手は「吠える投手」との愛称で呼ばれた。

そして、その後も斉藤和巳投手は杉内俊哉投手と和田毅投手に並んで三本柱として活躍した。

 

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この年の斉藤和巳投手の成績は20勝3敗。

同年、ホークスは『ダイハード打線』と呼ばれた強打者の揃った打線を率いて日本一の栄冠を掴んだ。

斉藤和巳投手もその日本一の立役者だということは言うまでもない。

 


最多勝最優秀防御率、最高勝率、ベストナイン沢村賞――――堂々たるタイトルを総なめにした。

ファンから後ろ指を指されながらも怪我に泣いた斉藤和巳投手にとって最高の記録を生み出せた一年だったに違いない。

 


2004年には防御率6点を記録しながらも10勝を上げると言う驚異的な勝ち運を見せつけた。

 


しかし、彼に悲劇の予兆が現れてしまう。

2005年の開幕直前に右肩に激しい痛みを訴え、開幕投手和田毅投手に譲る形となった。

 


それでも彼は復活した。4月27日の日本ハムファイターズ戦を皮切りに9月7日のオリックスバッファローズに9失点の黒星を喫するまで驚異の14連勝を築き上げる。

それこそ、田中将大投手の連勝記録は斉藤和巳投手の勢いを連想させる物があった。

 


『投手の神様が降臨しているようだ』

2006年当時のソフトバンクホークスの監督であった王貞治さんからはと言わしめた。この年に斉藤和巳投手は投手四冠や準完全試合達成などの記録を打ち立てる。

 


開幕前、二段モーションに対する規制が厳しくなったため、斉藤和巳投手はワールドベースボールクラシックの選考を蹴ってまでフォームの改造に取り組んだ。

 


たが、それが確実に右肩の爆弾に重荷として伸し掛かっており、着々と崩壊への序曲が始まっていた。

 


ホークスはシーズンが終わって三位。リーグ一位から三位まで勝率六割というハイレベルな争いであった。

プレーオフへ進み、同率二位である西武ライオンズとの一戦目は斉藤和巳投手の好投も虚しく1-0で敗北を喫したが、それでも西武に二連勝したホークスはプレーオフ第二ステージにて日本ハムファイターズと対戦する。

しかし、一戦目は日ハムの先発ダルビッシュ有投手相手に先制するが逆転される形で敗北。

10月12日、後に引けないホークスは斉藤和巳投手を最後の切り札として投入する。これまで斉藤和巳投手はポストシーズンに0勝5敗と弱く、王貞治監督にとって賭けであった。

 


対する日本ハムファイターズも引けなかった。

2006年限りで引退を表明していた新庄剛志選手のためにも北海道移転後初の悲願のリーグ制覇が懸かっていたからである。

両者の意地がぶつかり合った時、斉藤和巳投手も新人である日ハムの先発八木智哉投手も好投を見せ、試合は0-0の均衡を保ったまま9回裏を迎える。

 


この回、先頭打者の森本稀哲選手に四球を与えて出塁を許してしまう。この時に斉藤和巳投手は妙な胸騒ぎを感じたと言う。

 


続く田中賢介選手に二球目で送りバントを決められると、ソフトバンクベンチと捕手の的場選手はチャンスに強い3番の小笠原道大選手を敬遠することを選んだ。

 


それは4番のセギノール選手との勝負を選んだことを意味する。セギノール選手は言わずもがなパワーヒッターである。

斉藤和巳投手にファールで追い込まれたセギノール選手は144km/hのフォークに空振り三振。

 


そして2アウト、ランナーは一、二塁の場面に5番の稲葉篤紀選手が打席に立っていた。札幌ドームのボルテージは最高潮に達して、歓声とジャンプでグランド全体が震え上がる。

そんな中でも斉藤和巳投手の151km/hの剛速球が的場選手のミットに突き刺さる。126球も投球していたとは考えられないスピードである。

 


ネクストバッターズサークルには今シーズン限りで引退を表明していた新庄剛志選手。

『初球から振って行こう』と決めていた稲葉篤紀選手は142km/hのフォークを見逃さなかった。

 


センターへと抜けようとした打球。

大きく回り込んだセカンドの仲澤選手は好捕する。

ショートの川崎宗則選手が二塁へとカーバーへ入った。そして一塁ランナーの小笠原道大選手は二塁へと飛び込んだ。

 


審判の判定は

 

 

 

ーーーセーフだった。

 

 

 

仲澤選手の送球は僅かに逸れた。

川崎宗則選手は姿勢を崩してタイミングがズレた。

 


状況を理解できていなかった斉藤和巳投手の目には三塁を回って本塁へ滑り込む二塁ランナー・俊足の森本稀哲選手の姿が映る

 


その瞬間、ソフトバンクホークスの敗北が決まった。そしてベンチから日本ハムファイターズの選手やコーチたちが飛び出す。

 


斉藤和巳投手の脳裏には自らの師である王貞治さんとの約束がよぎり膝から崩れ落ちた。歓喜に沸く日本ハムファイターズの選手陣を尻目に膝から崩れ落ちた。

 

 

 

「秋には必ず戻ってくる。プレーオフを勝とう」

 


「監督の待つ福岡に戻ろう」

 

 

 

カブレラ選手とズレータ選手に左右から抱えられて斉藤和巳投手は退場した。この9回裏の戦いは野球を知らずとも有名な光景である。

 


それは127球目、9回2アウトからの悲劇だった。

 


右肩の炎症が原因で斉藤和巳投手は翌年の2007年を境にグラウンドから姿を消した。

右肩の怪我が想像以上に悪化しており、歩くだけで激痛が走ることもあった。彼にとって肉体的にも精神的にも辛い日々が続く。

二軍でもボールを投げられない毎日はかつて闘志を剥き出しに戦っていた斉藤和巳投手にとって想像を絶する苦痛であったに違いない。

 


現役復帰を断念―――2013年に2008年から5年間続いたリハビリ生活に終止符を打つことを決めた。

 


そうして2008年から5年間、1軍のマウンドでボールを握ることのなかった斉藤和巳は2013年9月28日に引退セレモニーのマウンドに立っていた。

捕手を務めた城島健司さんのミットにワンバウンドして白球が収まると大歓声が上がる。

その瞬間、彼の顔には満面の笑みが浮かんでいた。その姿は紛れもなく1人の野球少年だった。

 


彼は自身のブログ『ROUTE 66』にて自身の18年間についてホークス関係者やファンに対する感謝の言葉とともに綴る。

 

 

 

 


『最高の野球人生を過ごす事が出来た!』

 

 

 

 


『しんどかった思い出がほとんどやけど、幸せな野球人生やった!』

 

 

 

 


そして最後にこう締めくくった。

 

 

 

 


『最高や!』

 


『幸せや!』

 

 

 

 


『野球の神様ありがとうございました!』

 

 

 

『新しい人生、スタートします!』

 


福岡ソフトバンクホークス 斉藤 和巳 66』

僕が空手を始めた日④

これは空手のアラフォー世代の先輩がよく話していた話。 

 

僕が生まれて少し経った頃の昔の話、中井祐樹という柔術選手がいた。まだ、日本がプロレスと総合格闘技の見分けすら付かなかった時代の話。

 

中井祐樹ヒクソン・グレイシーという無敗の格闘家と戦うべくトーナメントに参加した。1回戦の対戦相手は198cmで100kgを超す巨体の空手、ジェラルド・ゴルドー。対する中井祐樹は170cmに70kg。命の危険すらある試合だ。そこで中井祐樹は目突きをされて失明をする。

 

中井祐樹は逃げなかった。何度も目を指で抉られ失明し、その上、殴られ続けても諦めなかった。そして、中井祐樹は足関節で勝利をする。

 

彼は病院で治療を受けることなく、準決勝を戦い、決勝へと駒を進めた。目は膨れ上がり、真っ赤に染まっていた。だけど、中井祐樹は逃げなかった。

 

目はほとんど見えていなかったのだろう。中井祐樹ヒクソン・グレイシーと戦って、そして敗北した。中井祐樹がもしも試合を棄権していたならば、もしもすぐに病院に行っていたら、彼は右目を失明して格闘家を引退することはなかっただろう。

 

中井祐樹は怪我をしても、体格差があっても、逃げなかった。

 

 

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僕も中井祐樹みたいに諦めたくなかった。

 

 

さて、ここで組手のあの瞬間に戻る。

 

 

綺麗に入った上段蹴りがノーガードの僕の頭にめがけて振り回される。少しでも上段回し蹴りが決まれば、組み手は終わる。

 

ガードを上げろ。

ガードを上げろ。

ガードを上げろ。

ガードを上げろ。

ガードを上げろ。

 

頭を下げろ。

頭を下げろ。

頭を下げろ。

頭を下げろ。

 

ズッシリと重い蹴りが右肩に突き刺さる。蹴りを肩で受けたことなどないので、派手にバランスを崩した。後に分かったことだが、転倒の際に左肩を脱臼していた。

 

いつもミットで受けていた先輩の蹴りがここまで重い物だと知らなかった。同時に組手で先輩が僕の蹴りや突きを受けるだけで、手を抜いていたことを痛感した。

 

道着の下には滝のように汗が流れている。ヘッドギアは熱を抑え込み、額から汗が滴り落ちた。

 

痛む左肩を押さえながら僕は立ち上がる。周りからは心配する声も溢れ始めるが、先生は組手を中断させなかった。

 

どうしても、この組手で最後まで闘いたかった。粘り強く泥臭くとも。どんなに無様にボコボコにされても。そんな不思議な気持ちが込み上げていた。

 

 

 

 

そうしたら、僕はピーター・アーツになれるかもしれない。

 

 

 

 

だから、僕は立ち上がることができた。他人にどう思われたいのではなく、自分がどうしたいかで初めて行動した瞬間だ。

 

僕は帯を締め直す。

 

「ラスト30」と叫ぶ声が聞こえた。ストップウォッチを測る茶帯の先輩の声だ。残り30秒、その時点で僕が床の上に立ってさえすればいい。

 

先輩はその姿を見て、何かを察したかのようにラッシュをかける。重くて素早い突きと下段蹴りが心を抉りとろうとする。

 

痛いけど逃げない。

 

 

それは土壇場だった。

 

上段蹴り。

 

 

対空時間が長く、ゆっくりモッサリとした蹴りで先輩のガードの上に止まった。

 

ピーター・アーツとは程遠い蹴り。

 

だけど、その瞬間、僕は紛れもなくピーター・アーツになれた気がした。

 

 

 

ブザーが鳴り響く。僕はまだ立っている。

 

 

 

その瞬間、僕は小さなピーター・アーツになれた気がした。

僕が空手を始めた日③

空手は暴力と根性というイメージしかなかった。バットを蹴り折ったり、滝に打たれて修行したり、そんなイメージ。

 

それに、始める前の僕には不安しかなかった。そらそうだ。運動なんてまともにできた試しがない。それが原因で学校でいじめられたし、周りに迷惑ばかりかけていたからだ。

 

 

空手=怖いものという認識と、そんな漠然とした不安から、楽しみや期待なんかより鬱屈さ圧倒的に優っていた。

 

 

それ以外のこともいっぱい考えていた。

 

 

学校みたいに笑われ者、嫌われ者になったりしないだろうか。また皆を失望させてしまうのではないのか。そもそも僕なんかが空手をやっていけるのか。

 

 

まぁ、そうこう色々とあって、当日の話になる。本当の意味で僕が空手を始めた日になる。

 

空手の道場のイメージはどうだろうか。日本式の家屋に畳敷きの道場をイメージするだろう。僕もそうだった。だが、現実は違う。

 

空手の道場というよりかはジムに近かった。プレハブ小屋で、床はマットが敷いてあって、大山倍達の写真が神棚の近くに飾られていた。サンドバッグが無骨に配置されていて、ロッカーや更衣室はない。

 

畳敷きで和風造りな室内をイメージしていただけに、面を喰らった。僕は天井でクルクル回る送風機を見ながら、ビビり倒していた。

 

先生はとにかくゴツかった。僕より身長が低いのに、僕より肩幅が3倍くらい大きい。声は軍人のように鋭く透った。色黒で目つきは鋭く目は大きい。40〜50代くらいで顔はモーフィアスか松平健に似ていた。

 

とりあえず挨拶をした。ドモリながらキョロキョロしながら。今考えると最悪な挨拶し、ただの失礼だった。

 

最初に型の稽古をした。脚も上がらなく、辿々しく、恥ずかしかった。帰りたい気持ちでいっぱいで泣きそうだった。凄く嫌だった思い出しかない。

 

次にミットを持って先輩のパンチを受けた。ミットに拳が当たる音だけで怖くて失神しそうだった。多分、うんこくらいはチビっていた。

 

僕の2つ年上の先輩で、背は僕よりも低く、朗らかでフランクな人だった。帯は黒帯で空手を7年していた。ニコニコしていたけど、そんな人でもこんな鋭い蹴りや突きを出すことに衝撃だったし、こうなりたいと言う憧れだった。

 

僕もミットに向かって、一生懸命に蹴りや突きを繰り出した。ただ、我武者羅に息を上げながら。

 

ミットを叩く瞬間が凄く好きだった。今までの鬱憤を晴らすこともできたし、自分がどれくらいの力を持っていたか知ることもできた。

 

何回も練習に行った。色んな技を学んだし、いっぱい稽古をした。

 

稽古を重ねるうち、日を追うごとに自分の叩く音が鋭くなり、構える側も必死の形相を浮かべた。最後には自分の蹴りでミットを構えている先輩を転倒させるほどになった。

 

 

そんな頃には不安なんか忘れて上達する楽しさを覚えていた。

 

 

そんな頃、空手の先生から組み手をしてみないかと言われることになる。相手はあの2つ歳上の先輩だった。僕はまた不安な感情になった。

 

手加減はせずにやってみぃ、という先生の言葉は最高に怖かった。いや、それ殺される奴やん。

 

必死に蹴り、必死に殴る。だけど、蹴りは膝でカットされ、突きはガードで下に落とされる。

 

痣もできるし痛かった。

 

我慢して殴る殴る蹴る。

 

 

そうするとガードが少し上がって、少しだけ腹部に隙間ができた。チャンスだった。

 

 

 

膝蹴りを腹に入れてやる。

 

 

膝を前に出した瞬間、僕のガードは下がった。膝蹴りは相手のガードに止められる。

 

 

その瞬間、鞭のように左足の脛が僕の顔目掛けて飛んできたのだ。

 

 

 

 

僕はピーター・アーツにはまだなれない。

 

僕が空手を始めた日②

前回までのあらすじ。

 

僕は親父の影響で格闘技を見て、ピーター・アーツに憧れた。だけど、いじめられて引きこもりなった。というわけで、僕の人生で一番最悪の瞬間から今回のブログは始まる。

今回は前回よりは暗くない。

 

生きてるのか死んでるのか分からず生きていた。僕はその時、その瞬間、本当に死んでいて、何かの手違いで生き返ったのかも知れない。とにかく、その時に何を考えて何をしていたのか覚えていないし、ここでは重要ではない。

 

 

ここからまた話が逸れる。

 

 

僕がなぜ空手を始めたのか、僕が本当に空手が好きだったのかを語る上で、僕の親父がどんな人間だったのかということが重要になるからだ。

 

一言で表すなら「金持ちガキ大将」だった。地主の次男坊で身体の大きなガキ大将、骨川スネ夫剛田武のハイブリットみたいな人間。

 

身内には横柄で外面は大人しい。おまけに、工場勤務で頑固で気性が荒く短気な性格。平成の時代に、机をひっくり返して怒る人間は僕の親父くらいしかないと思う。

 

さて、そんな人間が息子が学校でいじめられていると知ったら何を考えるか?

 

よくある話のように、相手の親を懲らしめる。そんなわけはなかった。

よくある話のように、学校に殴り込んだ。そうなわけなかった。

フライ,ダディ,フライ堤真一みたいにいじめっ子に仕返しをする。そんなわけなかった。

 

答えは僕にとって最悪だった。

僕が学校でいじめれていると聞いた瞬間、親父は機嫌が悪くなった。

 

 

親父自身、自分の息子がいじめられるような弱い奴だったのが許せなかったのかも分からない。別にそれ自体に間違いはないし、親父が最悪というわけではなく、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 

母親は泣いたし、親父は僕に失望していたし、僕にとってはその瞬間が人生で最悪の瞬間だった。両親を悲しませることが嫌でいじめから逃げていたのに、結局、両親を悲しませることになったからだ。

 

更に最悪なのは、このことで両親が喧嘩したことだった。

 

昔から人を笑わせることが好きで、人を悲しませることと怒らせることは嫌いだった。だから、この状態は13歳くらいの僕にとって凄く辛かった。

 

そして、数十分くらい良心が目の前で喧嘩をしてから、親父がある言葉を切り出した。

 

 

「おい、お前は空手をせえ」

 

 

いや、なんでそうなんねん。今同じ状況になったら絶対に僕はそう思う。

 

 

しかも何故か母親も賛同した。

 

 

こうして僕は呆気なく、空手を始めることとなった。ただ、1つだけ言えることは、僕はその瞬間、少しだけピーター・アーツに近づけた気がした。

 

 

ここでタイトルを回収するならば、これが「僕の空手を始めた日」になるのかも知れない。正しくは「親父が僕の空手を体験入会の申し込みをした日」。ブログはパート3に続くし、まだ終わらない。

 

 

ピーター・アーツに憧れた少年はここでようやく空手を始めることとなる。

 

 

 

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僕が空手を始めた日①

今日もちょっとだけ真面目な話。

 

 

僕の人生が変わったのはあの瞬間だった。

あの瞬間ってどの瞬間だよ、と思うかも知れない。

だから、これから、その話をしていこうと思う。

 

 

 

知ってる人はいるかな。

僕らが子供の頃、大人たちは格闘技に夢中だった。僕の親父も格闘技が好きだった。大晦日は絶対に格闘技を見るためにテレビを占領していた。

 

僕の親父は体がデカい。

柔道をしていて軟式野球4番バッターだったからデカい。170cmくらいで体重は80kgオーバーの巨体でデカい。

でも、そんな親父が釘付けになったのは、親父なんかよりもっとデカい、2メートル近く100kgを軽くオーバーする大男たちの殴り合いだった。

 

 

僕らが子供だった頃、紛れもなく、日本は世界の中心だった。

 

そんな時代の話。

 

 

 

その時代、ブラウン管テレビの向こう側に、僕の人生で最初に憧れた人間がいた。

 

 

 

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皆はピーター・アーツを知っているだろうか。

 

 

大木を切り倒す斧ような鋭くパワフルな蹴り。

大振りながらも真っ直ぐ整ったパンチ。

そして、逆境に追い詰められてもカウンターで相手を沈める勝負強さ。

 

ボロボロになりながらも、流血しながらも、最後にはニィと笑いながら会場を感謝の言葉を述べる。

 

 

筋肉で膨れ上がった腕、脚、胸、背中。紛れもなく僕の憧れだった。僕もピーター・アーツのように同じ舞台に立ちたかった。

 

小さな僕にはそんな機会なんてなかった。キックボクシングジムや総合格闘技のジムどころか、ボクシングやレスリングですら練習場のない場所。

おまけに目と心臓があまり良くなく、運動には不向き。根性はなくて泣き虫だった。

 

 

 

 

ここから話が少し逸れる。めちゃくちゃ暗い話になる。このブログが軽快なアホブログから、メンヘラの自分語りブログに転身する。

 

 

 

 

子供の頃はずっと塾とスイミング、あとは携帯ゲームをしていた。運動なんてからっきしで、内向的だった。中学に上がる頃にはそんな自分を変えたくて、運動部に入った。

 

それが一番の間違いだったと今でも思う。運動ができない奴が運動部に入るとめちゃくちゃ浮く。何にもできない。走り方すらおかしい。おまけに心臓の関係であんまり長時間走れない。

 

卓球とかテニスなら良かったかも知れない。僕が入ったハンドボール部は不良とチャラい奴の集まりだった。おまけに顧問が熱血の体罰教師で嫌われ者だった。

 

同級生も俺に雑務を押しつけてミスがあると集団で責めたり金を巻き上げたりした。不良の先輩には毎日サンドバッグ扱いされたり、ズボンを下ろした状態で女子の前に投げ出されたりした。

 

そんな姿を見たら誰か俺に哀れんでくれないのかなと思ったらそうでもなかった。目の前にパンツ姿の男が出てきたら誰だってキモいし、殴られてる奴はマヌケに見える。

 

同じクラスの人間にも嫌われていた。陰口に悪口に。物が無くなったり、机が無くなったり、廊下を歩くだけでデカい声で「来るなよ」の一言。

 

先生も誰も助けてくれなかったと思っていた。でも、今考えると自分から信号を出さなかった俺が悪い。世間なんて誰も自分を見てくれない。

 

自分から信号を出さなかったのも、先生に頼るしかできない弱い奴と思われたくなかったし、そもそも人の好き嫌いなんて誰かの一言で変わるわけない。

 

学校中のみんなが俺を嫌っていたと思い込んで、中学1年の最終学期には学校に行けなくなっていた。未だに人混みとか女の人の視線とか大きな音がちょっと怖い。

 

ずっと暗い部屋でボーとする毎日。

あんまり良い思い出じゃない。

 

人生が本当に最悪な瞬間だったかも知れない。

 

思い切って自殺できる人間が羨ましかった。俺はできなかったしずっと辛かった。自分可愛さにリスカも首吊りも飛び降りも出来なかった。家族を悲しませたくなかったし、自分が自殺してマヌケ扱いされるのも嫌だった。

 

こんなことしてる自分が今思うと一番のマヌケだった。

 

 

そんなマヌケはまだ、空手を始めない。