これは空手のアラフォー世代の先輩がよく話していた話。
僕が生まれて少し経った頃の昔の話、中井祐樹という柔術選手がいた。まだ、日本がプロレスと総合格闘技の見分けすら付かなかった時代の話。
中井祐樹はヒクソン・グレイシーという無敗の格闘家と戦うべくトーナメントに参加した。1回戦の対戦相手は198cmで100kgを超す巨体の空手、ジェラルド・ゴルドー。対する中井祐樹は170cmに70kg。命の危険すらある試合だ。そこで中井祐樹は目突きをされて失明をする。
中井祐樹は逃げなかった。何度も目を指で抉られ失明し、その上、殴られ続けても諦めなかった。そして、中井祐樹は足関節で勝利をする。
彼は病院で治療を受けることなく、準決勝を戦い、決勝へと駒を進めた。目は膨れ上がり、真っ赤に染まっていた。だけど、中井祐樹は逃げなかった。
目はほとんど見えていなかったのだろう。中井祐樹はヒクソン・グレイシーと戦って、そして敗北した。中井祐樹がもしも試合を棄権していたならば、もしもすぐに病院に行っていたら、彼は右目を失明して格闘家を引退することはなかっただろう。
中井祐樹は怪我をしても、体格差があっても、逃げなかった。
僕も中井祐樹みたいに諦めたくなかった。
さて、ここで組手のあの瞬間に戻る。
綺麗に入った上段蹴りがノーガードの僕の頭にめがけて振り回される。少しでも上段回し蹴りが決まれば、組み手は終わる。
ガードを上げろ。
ガードを上げろ。
ガードを上げろ。
ガードを上げろ。
ガードを上げろ。
頭を下げろ。
頭を下げろ。
頭を下げろ。
頭を下げろ。
ズッシリと重い蹴りが右肩に突き刺さる。蹴りを肩で受けたことなどないので、派手にバランスを崩した。後に分かったことだが、転倒の際に左肩を脱臼していた。
いつもミットで受けていた先輩の蹴りがここまで重い物だと知らなかった。同時に組手で先輩が僕の蹴りや突きを受けるだけで、手を抜いていたことを痛感した。
道着の下には滝のように汗が流れている。ヘッドギアは熱を抑え込み、額から汗が滴り落ちた。
痛む左肩を押さえながら僕は立ち上がる。周りからは心配する声も溢れ始めるが、先生は組手を中断させなかった。
どうしても、この組手で最後まで闘いたかった。粘り強く泥臭くとも。どんなに無様にボコボコにされても。そんな不思議な気持ちが込み上げていた。
そうしたら、僕はピーター・アーツになれるかもしれない。
だから、僕は立ち上がることができた。他人にどう思われたいのではなく、自分がどうしたいかで初めて行動した瞬間だ。
僕は帯を締め直す。
「ラスト30」と叫ぶ声が聞こえた。ストップウォッチを測る茶帯の先輩の声だ。残り30秒、その時点で僕が床の上に立ってさえすればいい。
先輩はその姿を見て、何かを察したかのようにラッシュをかける。重くて素早い突きと下段蹴りが心を抉りとろうとする。
痛いけど逃げない。
それは土壇場だった。
上段蹴り。
対空時間が長く、ゆっくりモッサリとした蹴りで先輩のガードの上に止まった。
ピーター・アーツとは程遠い蹴り。
だけど、その瞬間、僕は紛れもなくピーター・アーツになれた気がした。
ブザーが鳴り響く。僕はまだ立っている。
その瞬間、僕は小さなピーター・アーツになれた気がした。